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仙台高等裁判所 昭和32年(ラ)98号 決定 1958年7月08日

抗告人 大山善治(仮名)

主文

本件抗告を棄却する。

抗告費用は抗告人の負担とする。

理由

本件抗告の趣旨は、「原審判を取消す。抗告人が届出人本籍宮城県○○郡○○村○○○字○○一一九番地、最後の住所同県○○郡○○町○○字○町一五二番地亡大山重雄から同人と本籍東京都○○区○○○○○丁目五番地戸主大江昭叔母大江多美子との婚姻届出の委託を受けたことを確認する。」との裁判を求めるというのであり、その理由は、亡大山重雄から抗告人が右婚姻の届出の委託を受けたことはきわめて明白であるというのである。

さて、抗告人は原審での審問で、大山重雄は昭和一六年大江多美子と結婚した。結婚式をあげた場所は東京都○○区○○○町で、私はこの式に列席した。大山多美子(大江多美子)から婚姻届出の委託を受けたのは多分昭和一七年頃と思う。というのは結婚してから一年位たつてからと記憶しているからである。大山多美子が婚姻届出用紙に記入した婚姻届書と印鑑とを送つてよこしたので受託した。当時同人は東京におり本籍にいた私に届出てもらいたいと送つてよこしたのである。私は届出書の中の同意書のような記載欄に私の氏名を記入して印を押し、○○○村役場に持参して届出たように記憶すると述べ、大山多美子(大江多美子)は同じ審問で、私が大山重雄と結婚したのは昭和一六年四月○○日で、東京都○○区○○○町一一六○○宅で結婚式をあげた。右結婚式には重雄の兄の抗告人も列席したので、同人に入籍方をお願いした。その時は婚姻届出書用紙に記入し、母親の同意書とか書類をまとめて印鑑を渡して手続をとり、抗告人が帰る時に婚姻届出をしてくれるようにとお願いした。その時の書類は婚姻届出書と同意書と記憶する。その書類はすぐ役場に届出出来るようにしてやつたのであると述べている。

右両審問の結果によると、抗告人が本件婚姻届出の委託を受けたという時期について約一年の相違があり、かつ、前者は東京から宮城県下に婚姻届出書を郵送して委託したというのに反し、後者は東京都で直接に口頭で委託して婚姻届出書を手交したというのである。そして、両者ともその趣旨において誤解、錯覚にもとづく供述とはとうてい考えられないから、いずれもたやすく信用することができない。

また、官城県○○郡○○村長北葉大助の証明書には、大山重雄は大江多美子と事実上の婚姻をし、昭和一六年六月実兄の抗告人に依頼して戸籍吏に婚姻の届出をしたが、戸籍吏が右届出書を粉失して受理することができなかつた旨記載されているが、右は推測にもとづくものであることがその記載によつて明白であるから、たやすく採用することはできない。

前田四郎作成の当時の戸籍事務概要と題する書面には、大山重雄と大江多美子との結婚は昭和一六年四月○○日で、その後二ヶ月位過ぎて婚姻届を提出したそうである旨の記載があるが、右は伝聞にかかりしかもその根拠が全く不明であるから、これまたたやすく採用することができない。

また、前田四郎は原審での審問で、私は昭和一六年一二月二三日に宮城県○○郡○○○村々長に就任したが、その後戸籍の関係者から大山重雄と大江多美子との婚姻届出を受け付けて戸籍簿に記載しなかつたということを聞いたことがあると述べている。しかしながら、右審問で前田四郎は当時戸籍吏は仕事が忙しくてやりきれなかつたので私も戸籍と除籍とをやつたと述べており、また、前記当時の戸籍事務概要なる書面にも、私が○○○村々長に就任した後、戸籍事務は極度に渋滞して○○区裁判所から始末書の提出を求められかつ戸籍法によつて処分を執行するとの通知を受けたので、これを軌道に乗せるべく、時間を割いて自ら戸籍事務の一部を担当したので、面目を一新し同裁判所監督書記から労をねぎらわれたと記載されているから、前田四郎が前記審問の結果のように当時本件婚姻届出を受け付けながらこれを戸籍簿に登載しないままであつたことを知つたならば直ちにこれを登載せしめるにいたつたであろうことが推測されるのに、いまもつてその記載がなされないところからみると、右審問の結果はたやすく信用することができない。

その他記録を精査してみても、抗告人が大山重雄からその主張のような婚姻届出の委託を受けたことを認めるに足る資料はない。

そうすると、本件審判の申立はその理由がないと認めるほかはなく、これを却下した原審判は相当であつて本件抗告は理由がないからこれを棄却することとし、主文のとおり決定する。

(裁判長裁判官 斎藤規矩三 裁判官 鳥羽久五郎 裁判官 羽染徳次)

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